スーパーマーケッ子のヴェルサス日誌

ゲーム・お菓子・ときどき仕事

教えて!あたおか先生 の巻

今の会社に入社して久しい。

自分の下についているアルバイトの子との

年齢差がいよいよ一回りって感じになってきた。

 

「この子たちが生まれたとき、私もう中学生か!」みたいな。

 

それだけ【あの頃】が遠い昔になったのだとふと気づく。

 

地元の友達も結婚やら出産やらで疎遠になって

休みのたびに5、6人集まってたグループも

年に数回、2、3人の規模で近況報告する程度になった。

 

さみしいようだけど、まあ、こんなもんだよね。

 

久々集まった地元トーク

中学時代の思い出になった。

 

今回のお題は先生たちについてだった。

 

私には子供がいないので

昨今の学校事情はだいぶ疎いが、

人伝いに聞く先生の質はだいぶ変わったようだ。

 

まあ、現在はともかくとして

今回集まったメンバーで当時の先生たちの

話をしているとやっぱり異常だったのでは?と

思ってしまう話が結構出てきた。

 

合唱コンクールで私たちのクラスは

異例の特別賞をもらった。

本来、合唱コンクールは優勝クラスを決めるだけの

ものだったと思うんだけど、観覧に来ていたご父兄からの

評価が高かったことにより、

後日、特別賞を受賞することになったんだそう。

 

当時、知らなかったのだけれど、優勝したクラスの担任は

相当プライドの高い人だったようでこの特別賞に

大いに気分を害されたらしく

教務室で怒り散らしていたとのこと。

 

そんな話を聞いているうちに、この先生のエピソードを

思い出した。

 

私たちが在学中に始まった「朝読書」という

ホームルーム前の20分、字のごとく

図書館で借りた本、もしくは家から持ってきた文庫本を

読むみたいな時間が始まったのだが、

このイベントを発案したのはこの先生。

それをだいぶ長いことドヤってたな。

 

我々が卒業した後も、

違う学校に赴任した後もこの栄光を

ドヤり続けていたらしい。

・・・そこまでドヤることか?(;´‗ゝ`)

 

さらにもうひとエピソード。

この先生、私の担任ではなかったが、

私のクラスの国語の担当教師だった。

 

ある時、授業参観日が国語の授業だったことがあって、

その日の授業はディベートだった。

2つの班がお題に対して是非に分かれて

ディベート対決をするというような授業だったはず。

ルールは1つ。

発言はディベートの形をとって挙手制のターン制。

それらの結果どちらの班が勝ちかを

その他の班が投票するというもの。

 

これは私のイメージかもだが、

授業参観日というのは、授業であって授業でない。

先生はどこかよそ行きの声で

いつもより往々にして穏やか。

生徒も生徒でいつもやんちゃなあの子が

おとなしかったり、

しきりに親を気にしてみたり、

どこそこのママはきれいだとか

なんだか騒がしい。

そんな感じではないだろうか?

 

ところが、だ。

ディベートが始まり、お互いの意見が

飛び交い始めたころ事件が起きた。

 

ディベートが白熱し、質疑に対し

ひとりの子がターン制を忘れて応答をしてしまった。

そのとき・・・

「ルールも守れないのか、アンタはッ!」

と、廊下に反響するほどの絶叫をしたのだ。

 

応答した子はバツが悪そうに挙手し発言をし

何事もなかったようにディベートは続いたが

クラスメイト達も参観に来ていたご父兄も明らかに引いていた。

クラスメイトのふわふわしたムードも

ご父兄どうしの小さな声の会話も

すべてが止まった。

 

ディベートという形式だから、ルールがあることは大事。

だけど、ここまでヒステリックになるほどのことだったか?

というか、ここまでの叱責をして見せることは

この先生にとって得になったであろうか?

 

まだ幼かった私は当時、先生というものは

完璧な存在であると思って疑わなかった。

だから、今では理不尽と思うことも

我々に落ち度があるためと思って疑わなかった。

 

しかし、私たちも大人になり

大人が完璧ではないということを知る。

こうして振り返った時にはじめて

先生も我々と変わらぬ人間であったと知るのだ。

 

今はコンプライアンスという言葉がしきりに飛び交い

理不尽な思いを学校ですることは少なくなっているらしい。

いいことでもあるが、それだけだろうか?

 

社会で働いていると理不尽なことの方が多い。

逆らえない人が間違ったことを言うこと、ザラ。

そんな局面をどう乗り切るか。

これがうまい人が社会で勝ち残る。

 

これが現代社会の攻略法ならば、

先生のヒステリーさえ授業の一環だったのだと

今は思えるのだ。